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2012年1月 1日 (日)

持統天皇はアマテラスか?《番外編》

半年ほど、持統女帝の追っかけをやってきた。

女帝は、天智天皇と天武天皇のやり遺したことをやっただけと、わりと軽い評価が多いようだが、はたしてそうか。

たしかに、天智《当時は中大兄皇子》のように自ら太刀を振り回して大暴れしたこともないし、天武《当時は大海人皇子》のような国を二分する大争乱も起こさなかった。

しかし、天武が命じた日本書紀の編纂は女帝の時代に骨格が創られた、その書紀を通じて持統女帝の史観は後世に投影され、その影響を最も受けたのは明治以後の国づくりに於いてだった。

江戸時代も書紀の研究はなされたが、当時は徳川幕府が実権を握り、朝廷は形骸化していた。

もともと、天武が書紀の編纂を命じたのは、白村江での敗戦以来、唐.新羅連合による日本侵略が現実の脅威としてあり、それに対して主権国家としての日本の歴史と正当性を確立する必要があったからであり、どちらかと言えば国外向けのものだった、当時の国内で漢文を読める人はごくごく一握りのはず。

書紀の編纂は、日本は百済とは異なる独自の歴史をもつ独立国である事を示す必要性にせまられての事と思われる。

と、言うことは、うがった見方をするなら、それまでの日本は、独立国としてではなく、百済の属国ではなかったにしろ、百済と同一の民族であり一体の国として見られてたのではなかろうか、また、そのように見られても当然のような状況にあったかも。

一方、明治の日本の最大の課題は西欧列強の侵略から日本を守ることであり、それは、7世紀末ころの状況と極めて類似してる、そこで、日本書紀が今度は国内の学校教育などの場で歴史教育に使われ、昭和208月15日までは神代紀も含めて日本書紀は全て史実だった。

ともあれ、日本が名実ともに独立国といえるのは、7世紀末から昭和20815日までかな、それ以前はよく解らないというのが正直なところ、それ以後、今日までは、主観の問題か ??

7世紀末以前のことがよく解らないのは、それは百済との関係がいまいちよく解らないからだ、専門家は何をやってるのか、韓国と国交正常化して、かなりの年数が経過してるのに、なに、ヤッテンダヨー、真面目にやれ! とヨタのひとつも飛ばしたくなる、ちやんと韓国へ行って調査してんのか。

歴史の専門家も最近のマスコミと同じなんかな。

マスコミは、自ら取材もせず、警察や検察の発表をそのまま記事にするだけ、自らの取材で記事を書いて、もし、それが間違ってたら、責任を追及されるからだ、しかし、警察や検察の発表が間違ってたら、それは警察や検察の責任になる。

日本書紀に拠ればと、することによって、仮にそれが間違ってても、痛くも痒くもないというわけか。

韓国には継体天皇やら天智やら天武やら、ほとんどの天皇は半島からの渡来人とする研究者もあるようですが、いくらなんでも、そんなことは、と思うが、しかし、もしかすると宝皇女《後の皇極.斉明天皇》なんかは、渡来人かも、敏達天皇の曾孫であるとか、最初の夫であり用明天皇の孫である高尚王の父が誰なのか解らないとか、宝皇女の出自そのものが捏造としか思えない。

以前にも書いたが、唐.新羅連合軍との戦さに対する力の入れようなどからも、宝皇女が百済の王族の出身者か、そうでなくとも、極めて強い結びつきがあったと考えるのが自然だろう。

もし、そうであっても、日本書紀は、その編纂の目的からも、それを絶対に明らかにはできないだろう。

とにかく、日本書紀編纂の目的が日本は百済とは異なる独立した国であることをアピールするためであるなら、百済との密接な関係は意図的に隠蔽されてると考えなければならない。

そう、言えば今日は元旦でしたね、今年も世界経済は低迷しそうだ。

難しく考えると解んなくなりますが、簡単に考えれば、簡単だ。

20世紀後半の先進国の人口は日本、アメリカ、西欧など10億人足らず、10億人で世界の富のかなりを分け合ってきたが、今はそれに中国、インド、ロシア、ブラジルなどが参入してきた、その総人口は40億人ほどか、もう、以前のように日本もうまい汁を吸えなくなるのは当たり前、アメリカなら、その政治力から軍事力まであらゆる手段を使って自国の利権を守ろうとするだろうが、それは日本には無理、チマチマ生きるしかなかろう。

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2011年11月 5日 (土)

持統天皇はアマテラスか?《その10》

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この古代の森は、私の得た結論を書いてるわけではない、その時どきに思った事や考えたことを、謂わばメモ帳代わりに書いてる。

したがって、話が前後したり、違ってきたり、同じ話が何度もでてきたりは当然のこと、人間の思考パターンとはそうゆうものだ、私は、それを「森を歩く」と言う。

古代の森には物的証拠は何もない、でも、いろいろ書いてるうちに私なりに確信に近いものが芽生えることはあり得る。

持統天皇は自らをアマテラスたらんと考えたと思う、同時にアマテラスと祖母である斉明女帝をだぶらせる事もあっただろう、仮に斉明女帝がアマテラスなら自らはその孫であるホノニニギであり、自らがアマテラスなら、ホノニニギは孫の文武天皇になる、皇祖神が女性神でなければならない必然性もそこにある。

持統女帝の吉野宮への思い入れはなみなみならぬものがある、必ず年に幾度か行幸してる、そのわけについては良くわからないが、ひとつには、そこが斉明女帝の宮である事によるのだろう、斉明女帝は、また道教を好んだとも云われ、持統もその影響を受けているだろう、「天皇」と言う呼称も道教からのもの、持統女帝にとって吉野は聖地なのだろう、その聖地の主は斉明女帝てあり、斉明女帝とアマテラスが重なり合って見えるのは自然なことだろう。

斉明から天智、そして持統へと続くラインが重要なのだ、天武は天智から持統へ繋ぐためのワンポイントリリーフであり、で、あればこそ、日本書紀において天武の業績の律令制定作業の開始などいくつかを天智の業績として付け替えるという粉飾も必要になったと考えられる。

一方、天武天皇がアマテラスを皇祖神に抜擢しなければならない必然性は見当たらない、当時は少なくとも、支配階級にあつては公然とした一夫多妻社会だった、女性が物同然に扱われるような例も少なくない、そのような男優位の世にどうして女性神がという疑問はぬぐえない。

天武が娘の大来皇女を斉王として伊勢へ派遣した事とアマテラスを直接結びつけるのは間違いのような気がする、ただ、天武も天皇の権威を高め神格化するために新たな皇祖神を模索してたのかもしれないが、それを女性神のアマテラスにとの発想にまでは至らず、タカミムスヒを廃することも出来ずにいたのが実情ではなかろうか。

この時代の天皇で伊勢を訪れたことのある天皇は持統女帝の他には聖武天皇だけのようだ、天武は壬申の乱のおり、伊勢のアマテラスを望拝したとあるが、これは史実とは異なるようだ、ただ、持統も聖武も伊勢へは参拝のためではないと云う、しかし、その時点で伊勢神宮にアマテラスが主神として祀られていたなら、当然、持統の伊勢訪問は公式参拝となるはずではなかろうか、もし、主神がアマテラスではなくタカミムスヒなら、持統はそれを参拝するわけにはいかないだろう。

持統女帝が自ら葦原中ッ国のアマテラスたらんとの想いを抱くようになったのは恐らく草壁皇子が亡くなってからだろう、誰かが、そのようなことを女帝に進言した者があったのかもしれないし、また、女帝自身の発想かもしれない《ただし、この時点ではアマテラスという固有名詞はまだなかった》、このころ、藤原不比等は判事という役職についたようだ。

ただ、記紀の神話を創作し、アマテラスを神武以来の皇祖神であるとし、伊勢神宮の祭祀を置き換えたからといって、ただちに、それが広く世間に浸透するわけではなかった、豪族の一部は相変わらずタカミムスヒを奉じ、民衆レべルではオオクニヌシの方が知られたのかもしれない。

その後、天皇が公式に伊勢神宮を参拝するのは持統天皇から一千年以上の時が過ぎてからの明治天皇が最初らしい、明治政府にとって、持統女帝が思い描いた、アマテラス直系の現人神としての天皇は都合が良かったようだ。

江戸時代には、お伊勢参りのブームもあったと云う、お蔭参りというのが何度かあって一説には年間450万人の参拝客があったとある、信じ難い数字ではある、当時の日本の人口は多くみつもつて3000万人ほどか、メッカを訪れるイスラム教徒もそれほどの比率ではないだろう。

当時、江戸からは片道15日ほどだったらしいが、それも、必ずしもアマテラスへの信仰心というようなものではなかっただろう、物見遊山な観光旅行がしたかったのだ、何処へでも自由に旅の出来る時代ではなかったが、お伊勢参りを口実にすれば容易に通行手形を発行してもらえたようだ。

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2011年10月29日 (土)

持統天皇はアマテラスか?《その9》

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権力者は常に孤独なもの、それでも天智天皇には腹心の中臣鎌足がいた、天武天皇は時に応じて妻の鸕野讃良皇女《うののさららのひめみこ=後の持統天皇》に相談したとも云う。

病弱とも凡庸とも云われる草壁皇子はそれでも母である持統の相談相手くらいにはなれたのか、その草壁皇子も689年4月病死する《享年28歳》。

持統女帝の悩みは他にもあった、天武時代からの懸案である律令の制定や日本書紀の編纂などの事業が人材不足のため遅々として進まないのだ、また、草壁皇子の没後、自ら正式に天皇となり、孫の軽皇子《後の文武天皇》の成長を待つことになるが、その軽皇子の後見となれるような人材も必要であった、そんな状況の中に藤原史《不比等=ふひと》が登場してくる。

藤原不比等は持統女帝の14歳年下になる、壬申の乱の時、不比等の父である中臣鎌足はすでに没してたが、中臣氏は概ね大友皇子側についた、しかし、不比等は年少であったために乱後の処罰を受けることはなかった、幼少時は山科の田辺史 の元で育てられたとあるだけで詳しいことは解らない、一説には田辺の家に出入りする渡来人に中国の歴史や律令制などを学んだとある。

律令の制定や日本書紀の編纂などは川島皇子や忍壁皇子ら皇族達が責任者となってたようだが、彼らにそれをまとめあげる能力があったのかは疑問である、701年に制定された大宝律令には不比等が中心的な役割を果たしたと考えられる、日本書紀の編纂に不比等が関与した記録はないが、全く関与がなかったとは考えにくい。

後世の人は、不比等を権謀術数に長けた政略家と考えるかもしれないが、少なくとも当時は持統女帝の忠実な臣下だあったはずである、権力者は一方において極めて猜疑心が強い、野心家であるとみられたら、その後の出世はなかったのでは...。

中臣鎌足が常に天智天皇の忠実な臣下であったことに女帝はある種の安心感を持ってたかもしれない。

不比等は天智天皇の「落とし胤」との説がある、その可能性が全くないわけではないが、一方で「だから何なの」とも言いたくなる、持統政権下で不比等が天智の落とし胤としてふるまったのならいざ知らず、不比等はあくまで女帝の臣として仕えたと思う、女帝も不比等が天智天皇の落とし胤との認識はなかったろだろう、落とし胤説はかなり時代が進んでから出てきたもの、その真偽は確かめようがない。

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2011年10月 3日 (月)

持統天皇はアマテラスか?《その8》

I21

○○○○○○○○○○○○○

686/10/2皇子大津謀反発覚。逮捕皇子大津。并捕為皇子大津所(言+圭)誤直広肆八口朝臣音橿。小山下壱伎連博徳。与大舍人中臣朝臣臣麻呂。巨勢朝臣多益須。新羅沙門行心及帳内礪杵道作等、三十余人。

686/10/3賜死皇子大津於訳語田舍。時年二十四。妃皇女山辺被髪徒跣。奔赴殉焉。見者皆歔欷。皇子大津。天渟中原瀛真人天皇第三子也。容止墻岸。音辞俊朗。為天命開別天皇所愛。及長弁有才学。尤愛文筆。詩賦之興自大津始也。

686/10/29詔曰。皇子大津謀反。(言+圭)誤吏民・帳内不得已。今皇子大津已滅。従者当坐皇子大津者、皆赦之。但礪杵道作流伊豆。又詔曰。新羅沙門行心。与皇子大津謀反。朕不忍加法。徙飛騨国伽藍。

686/11/16奉伊勢神祠皇女大来。還至京師。

○○○○○○○○○○○○○

日本書紀.持統天皇紀の大津皇子謀反に関する記述は以上の通り。

102日に大津皇子以下30余人を逮捕、翌3日には大津皇子を処刑、29日には流罪とするものもあったが多くは赦されたようだ。

大津皇子は天武天皇の第三子であり叔父の天智天皇にも愛され、立ち居ふるまいや、弁舌にも優れ、文筆を好んだ、ともある。

ただ、この種の評価がどこまで客観的なものであるかは疑わしい、ちなみに、同じ、書紀.持統天皇紀の冒頭で持統天皇について「冷静沈着、広い度量をもち、礼節を好み、母としての徳を備えてたおられた」と評してる、一昔前の結婚式では新婦には必ず「才色兼備」の形容詞がついたものだ、最近の結婚式事情については知りませんでございますが。

1116日には大津皇子の同母姉の大来皇女を伊勢神宮から呼び戻す。

翌日の1117日には地震があったようだ、書紀に「地震」とある、その後、地震についての記述はないので、さほどの大地震ではなかったようだ。

本当に謀反の画策があったのかについては、多くの歴史家は疑問視してるようだ、で、あるなら、何ゆえ持統女帝は大津皇子を粛清せねばならなかったのか?

99日、天武天皇の崩御によって政権は一気に不安定化したと思われる、継承者としての草壁皇子は病弱であったとも言われる、次の真の権力者、実力者は誰なのか、周囲は、当然、そのことこそが最大の関心事であつたろう。

その候補者の一人が持統であることは間違いないが、持統にとっては怖いのは大津皇子ではなく、高市皇子ではなかったのか?

高市皇子は天武天皇の長子であり、当時、30歳を過ぎてたと思われる、壬申の乱では前線に立つことのなかった天武天皇《当時は大海人皇子》に成り代わって采配をふるったとも云われる。

持統政権下にあっては摂政でもあったことから、能力的にもそこそこ優れてたと考えられる、母の身分が低いというハンデはあるが、持統の父の天智天皇は母の身分が低い大友皇子を後継にしようとした前例もある。

ただ、高市皇子にその気があったかどうかは不明。

持統が、天武の后であったから、天智の娘であるからといって何の苦労もなく、最高権力者の座につけると考えるのはムシがよすぎる、仮に、たなぼた式に権力者の座についたとしても、果たして、その権力を行使できるものか、どうか?

ここで、もう一度、持統の父である天智天皇について考えてみたい。

天智《当時は中大兄皇子》が、異母兄の古人大兄皇子を攻めたのは、孝徳天皇が即位した後だった、また、有馬皇子を粛清したのも斉明天皇が即位した後だった、つまり、事が決着してからのことだ、何の必要があって、と、考えざるを得ない、公的には、古人大兄皇子と有馬皇子は謀反の罪で、と、なってるが、それを、そのまま信ずる歴史家はいないだろう。

天智《中大兄皇子》は誰が天皇であろうと、真の実力者は自分であることを示したかったのではないか、それには腕力を見せ付けるのがまだまだ有効な時代でもあった。

持統はその父の手法を用いたと思われる、最高権力者の座を確実にする為には、断固たる意志と姿勢を示す必要があった。

天智天皇も天武天皇も戦いによって権力を手に入れた、二人の天皇を間近に見ていた持統は、そのことをよく知っていたのだ。

この時代、6人《8代》の女帝が誕生したが、持統と他の女帝達との決定的な違いが、そこにあった。

ともあれ、天武天皇の崩御から一月も経ないで起こった、この事件でポスト天武の実力者が誰なのかが明確になった、権力の空白期間は最短で終了した。

仮に、持統ではなく高市皇子が大津皇子を弾劾してたなら、歴史は違ったものになってたかも知れないが、おそらく高市皇子にはそのような発想はできなかっただろう。

持統としては大津皇子ではなく高市皇子を粛清する手もあったかもしれないが、やりやすい方を選んだとも言えるし、大津皇子に、つけこまれるようなスキがあったのかもしれない、または、高市皇子は手元において活用したいと考えたかも知れない。


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2011年9月19日 (月)

持統天皇はアマテラスか?《その7》

----オオクニヌシの国譲り神話----

アマテラスは弟のスサノヲを高天原から追放する、追放されたスサノヲは出雲の国でヤマタノヲロチを退治して英雄となる、スサノヲの6代目の子孫となるオオクニヌシは、葦原中国《日本国》を統治するようになるがアマテラスを筆頭とする高天原勢力は葦原中国を譲るようにオオクニヌシに迫る、オオクニヌシは抵抗するが、最終的には高天原から派遣されたタケミカヅチの力の前に国譲りを承諾する。

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古事記にあるオオクニヌシの国譲り神話については、従来からいろんな説はある。

どこかに、例えば、出雲とか、大和とかにオオクニヌシの国があって、神武天皇の東征によってヤマト王権が征服したとか、あるいはタカミムスヒを国家神とする渡来系の民族によって畿内にあった国が征服されたとか。

I508_12 しかし、私はオオクニヌシの国譲り神話は、7世紀末にアマテラスを皇祖神とするために必然的に創作されたものと思う。

それまでの国家神はタカミムスヒであったが、タカミムスヒは朝鮮半島の勢力との戦いの中で、かなり人為的に導入されたものであり、必ずしも民衆レベルで広く浸透してたとは思えない、それに比べてオオクニヌシは弥生以来の自然発生的な土着の神であり、神話伝説の類も多く、民衆レベルで広く浸透してたと思われる。

一般的には、名前のオオクニヌシからしても、当然、オオクニヌシこそが最高神であるとの意識はかなりあったのではないか、そこへ、新たにアマテラスを最高神とすることになったわけだから、それには何らかの説明が必要になったと考えられる。

古事記には、かなり詳細な国譲り神話があるが、日本書紀にはほとんどない、日本書紀が主として外国《中国や朝鮮半島の国々》向けの内容であるなら日本の土着神についての物語はさほど必要なかっただろう。

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2011年9月 8日 (木)

持統天皇はアマテラスか?《その6》

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日本書紀の天武天皇紀には

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天武天皇二年四月己巳【十四】》夏四月丙辰朔己巳。欲遣侍大来皇女于天照大神宮。而令居泊瀬斎宮。是先潔身。稍近神之所也」《673年》

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とある、大来皇女は天照大神宮へ派遣するため、この後、身を清めるということらしい、実際、この一年半後に大来皇女は伊勢神宮へ向かう。

しかし、この時期、天照大神《アマテラスオオミカミ》はまだ成立してない、したがって天照大神宮などは存在してないはずなのだが。

持統天皇は大津皇子を謀反の罪で粛清した直後に大来皇女を伊勢から呼び戻してる、大津皇子は大来皇女の同母弟になる。

そんなことから、天武天皇が娘の大来皇女を斉王として伊勢神宮へ派遣したのは事実と思われる、ただ、それが天照大神を祀るためであったかどうかは疑問が残る、天皇の権威を高めるために伊勢神宮を活用する考えではあったと思うが、祀神を差し替えることまでは考えてなかったのではないか。

伊勢神宮への斉王の派遣は過去にも例がある、天武は斉王派遣を復活したのだ、過去においては伊勢大神などと標記されてるが、この伊勢大神がアマテラスを表すとは思えない、やはりタカミムスヒだろう。

689年、草壁皇子の葬儀の際の柿本人麻呂の詠んだ歌に「天照、ヒルメの命」と云う言葉がある、この時点においても天照大神ではなくヒルメの命《みこと》となってる、しかも、このヒルメの命はどこに祭られてるのか不明である。

それでは、アマテラスはいつから伊勢に祀られるようになったのか。

持統天皇は692年に伊勢へ行幸してる、しかし、参拝目的ではないという、参拝以外の何の目的があって持統天皇は伊勢へ行幸したのか?

このとき天皇の伊勢行幸は農事の妨げになるとの理由で論争があったらしい。

一説には、この時、大和の初瀬に祭ってた日神《太陽神》を伊勢の社に移したとある、この時の持統女帝こそが垂仁天皇の時代に皇女の倭姫がアマテラスにふさわしい地を求めて各地を巡り歩き、最終的に伊勢の地に至ったと云う倭姫神話のモデルであるという。

天皇が行幸することが農事の妨げになるなら、天皇は疫病神ということになる、そんな事はないだろう、やはり、祀神の差し替え、あるいは、祀神の移し替えに対しての抵抗勢力の反対があったと思われる。

が、持統はそれを押し切って伊勢へ向かったようだ。

伊勢神宮のアマテラスは、形式的には文武天皇2年《698年》との説もあるが、事実上は、692年の持統天皇の伊勢行幸時に誕生したと考えるのが妥当ではなかろうか、近年、専門家の間ではアマテラスを皇祖神に抜擢したのは天武天皇であるとの説が有力となってるが、私はアマテラスを皇祖神に抜擢したのは持統天皇であると考えたい。

もし、天武であるなら、どうして女性神であるアマテラスに白羽の矢をたてたのか今ひとつ腑に落ちないが、持統ならば、何となく解りそうな気がする。

当然、日本書紀の神代紀や垂仁天皇紀、天武天皇紀などは、以上のような事を踏まえた上で、これ以後に記述されたのだろう。

◎「古代の森」の参考書籍

「壬申の乱」 遠山美都男 中公新書

「天智と持統」 遠山美都男 講談社現代新書

「アマテラスの誕生」 溝口睦子 岩波新書

「日本の女帝の物語」 橋本治 集英社新書

「伊勢神宮の謎を解く」 武澤秀一 ちくま新書

「日本書紀の謎を解く」 森博達 中公新書

「激変! 日本古代史」 足立倫行 朝日新書

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2011年8月28日 (日)

持統天皇はアマテラスか?《その5》

I97

日本書紀って、ヘンな書物。

持統天皇の母、遠智娘《おちのいらつめ》が連れ去られた姉の身代わりになって中大兄皇子の妻になった話なんかがなんで載ってるのかな。

客観的事実をそのまま載せただけという見かたもあるでしょうが、日本書紀には、時々、そうではない事実《?》もあったりするからやっかいだ。

これが、小説なら、持統女帝物語の始まりとしては、なかなか面白い。

持統も、もし姉の太田皇女が存命であったなら天武帝の后にも、天皇にもなれなかったに違いない、遠智娘の事件は、持統の運命を示唆するものなのか。

持統の生まれたのが乙巳の変の645年、そして701年の大宝律令の完成を見届けて、翌702年に崩御。

この間に、蘇我入鹿、蘇我蝦夷、古人大兄皇子、蘇我倉山田麻呂、有馬皇子、大友皇子、大津皇子などが粛清され、白村江での大敗北と朝鮮半島からの前面撤退、そして古代史上最大の争乱となった壬申の乱があった、地震と津波と原発事故があったようなものかも。

この国難を天智、天武、持統と続く3人の実力派天皇によつて乗り切ったことなになる、その最後のまとめ役が持統女帝だった。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

日本書紀には、大海人皇子《天武天皇》は壬申の乱の行軍の折、伊勢の地にて遥かに天照大神を拝したとあるが、これが史実でないことは既に明らか。

当時、伊勢神宮の主神はタカミムスヒであり、天照大神《アマテラスオオミカミ》と云う名称すらなかった、天照大神の前身は太陽神のヒルメ《日の女、日の妻》であり、多くの自然神のひとつであり、伊勢神宮においてはタカミムスヒの世話係り的な立場に過ぎなかった。

天武天皇は、674年に愛娘の大迫皇女《大来皇女》を斉王として伊勢神宮に派遣したが、この時点でも未だ天照大神の呼称には至ってない、日本書紀の持統紀にも天照の文字は見当たらない。

しかし、712年の完成となってる古事記と720年の日本書紀.神代紀では堂々と天照大神の名で主役級の扱いになってる。

弥生時代にあっては、この国の代表的な神はオオクニヌシだつたと云う、それが朝鮮半島との関わりのなかでタカミムスヒが最高神となり、更に、アマテラスへと主役交代が行われる、それには神話から創作するのが手っ取り早いと言えば、そうかも。

このような大技が出来るのは、持統天皇か? それとも藤原不比等あたりか?

日本書紀は697年、持統天皇の文武天皇への譲位によって完結してるが、持統女帝はその後も太上天皇として702年の崩御までは最高権力者の地位にあったと思われる。

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2011年8月14日 (日)

古代の森.持統天皇はアマテラスか?《その4》

I26   

壬申の乱に破れ自害した大友皇子と謀反の罪で持統によって処刑された大津皇子はともに文武に優れた有能な皇子であったと日本書紀にはあるそうだ。

一方、持統の子の草壁皇子については何ら記述がないことから凡庸な皇子であったという者もある。

I508_13 天智は大友皇子を中継ぎとして最終的には大津皇子に皇位を引き継ぐ考えであったとも言われる。

たしかに、大友の母は地方豪族の娘であり、必ずしも皇位継承者としてふさわしいとは云えないのに対して、大津は父が大海人、母は天智の娘の大田皇女、天智と大海人両方の血を受け継ぐサラブレッドなのだ。

しかし、このような話が、もし、持統の耳に入ってたなら、持統の心境は複雑であったろう、わが子の草壁も、また、天智と大海人の血を受け継ぐサラブレットなのだ。

姉の大田皇女は自分より「一年早くうまれただけではないか」と思ったかもしれない、しかも、草壁は大津より年齢が一年上なのだ。

この時期、すでに、大田皇女は亡くなってる、持統の複雑な思いは、当然、父である天智に対するものであったろう。

最終的に大津皇子に皇位が引き継がれるなら、大海人にとって必ずしも悪い話ではないのかもしれないのだが、持統とその息子の草壁皇子は完全に皇位継承の埒外、蚊帳の外という事になる。

しかし、壬申の乱の結果、天智天皇の描いた絵は完全に消え去り、持統は正式に天武帝の后となり、草壁皇子は後継候補の先頭に立つことになった。

そんなところから、壬申の乱の仕掛け人は持統との説も当然あるのだろう。

ただ、大海人としては、仮に天智との間で、「いずれ、大津皇子に」というような約束があったとしても、一旦、大友皇子が皇位についてしまえば、その後のことはどうなるかわからない、現に大海人自身も東宮《皇太子》の立場にありながら、天智は大友を太政大臣に任命し後継にしようと考えてるではないか、この話にはそう簡単に乗れないというのが本音だったろう、大海人と持統の胸の内はそんなに違わなかったかもしれない。

671年正月のころ、持統は27歳、大海人は推定30歳代のなかば。

疑問なのは、本当に大友皇子と大津皇子は有能であり、草壁は凡庸であったのか、仮に、そうであったとして何故それを日本書紀にわざわざ記述せねばならぬのか?  なのだ。

ひとつ、考えられるのは、怨霊対策かな。

大友や大津が怨霊となって祟るのを恐れたのだ、事実、草壁皇子が皇位を継承する前に亡くなったのは、怨霊の祟りであるとの風評はあったようだ。

持統にも、歴史の結果については、それなりに、うしろめたさもあったのかもしれない。

持統にとって大友は異母弟、大津は甥であり継子であった。

◎「古代の森」の参考書籍

「壬申の乱」 遠山美都男 中公新書

「天智と持統」 遠山美都男 講談社現代新書

「アマテラスの誕生」 溝口睦子 岩波新書

「日本の女帝の物語」 橋本治 集英社新書

「伊勢神宮の謎を解く」 武澤秀一 ちくま新書

「日本書紀の謎を解く」 森博達 中公新書

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2011年8月13日 (土)

古代の森.持統天皇はアマテラスか?《その3》

I22 

毎年、正月になると総理大臣の伊勢神宮参拝のニュースが流される。

ちなみに、私メは伊勢神宮を参拝した事はない、今後も恐らく参拝することはないだろうと思う、私は出不精ですから。

しかし、何かの間違いで私が総理になったら、やはり参拝するんだろうな、とは、思う。

....

そんな事はどうでもいい。

伊勢神宮に祀られてるのは?.......天照大神である

いつから?..........ず~と昔から

これ、日本人の常識。

本来、皇祖神として大和の地にあったはずの天照大神が伊勢の地に来たのは日本書紀に拠れば、第11代垂仁天皇の時代との事、しかも、あちこちと随分回り道をしながら伊勢に着いたらしい。

しかし、最近の研究では、伊勢神宮がアマテラスを祀るようになったのは第40代の天武朝からではないかとなってる、それまでの伊勢神宮には外来の太陽神であるタカミムスヒが祀られていたとの事。

674年、天武天皇は大田皇女の産んだ娘、大迫皇女《当時14歳》を斉王として伊勢神宮へ派遣したとある、斉王というのは天皇の代理として神を祀る任にあたる。

私は歴史全般にそれほど興味があるわけではない、ただ、縄文時代には憧れてる、縄文時代には酒があった、しかし、税金はなかった、当然、クソッタレ官僚もいなかっただろう。

ただ、それだけで憧れてる。

まもなく、また、総理大臣が替わるようだ、毎年々々、総理が替わるなんてのはみっともない、日本の恥だと云う人もあるが、恥だろうが何だろうが百人でも千人でも、しょうもない総理なら変えたほうがいい。

そもそも、この国を男に任せてたのでは、ラチがあきそうにないと以前から思ってた。

多分、今日あたりから名前の出てくる総理大臣候補者達をみて、益々、その思いが強くなるのではないかな。

I23

それでは、と、歴史上の女帝探しを始めてみたのだが。

とにかく、6世紀末から8世紀中ごろにかけては女帝が多い、女帝だらけだ、何故この時代に女帝が多かったのか興味はあるが、それは、また別の機会に考えるとして、この間、8代《6人》の女帝が誕生したが、例えば、最初の女帝と考えられる推古天皇の時代は蘇我氏が権力を握っていたし、次の皇極帝の時代も同様だった、斉明帝の時には蘇我氏は既に没落していたが、斉明帝は土木工事にご執心で政治全般については専ら中大兄皇子に任されてたようだ。

したがって、フリ-ハンドで政治全般を執り行った女帝は持統帝が最初で、もしかすると最期かもしれない、持統後は藤原氏の存在が大きくなってくる。

持統は日本史上唯一の最高権力を持った女帝といえる、卑弥呼の時代は日本といえるほどの国はまだ存在してない。

で、アマテラスが伊勢へ赴く際に回り道をした件ですが、これは天武帝《当時は大海人皇子》が壬申の乱の折に行軍したルートとほぼ一致するそうだ、行軍には途中まで持統も同行したらしい。

つまり、垂仁帝の時代とされるアマテラスの伊勢行きは、壬申の乱のときの天武の行軍ルートを元にして天武または持統の意向によって創作されたと考えられる、ただ、天武はその没年から、書紀の編纂編集にどの程度関与できたか、多く関与できたのは、やはり持統であったろう。

年の初めの総理の伊勢神宮参拝の仕掛け人は持統女帝か?

I24

◎「古代の森」の参考書籍

「壬申の乱」 遠山美都男 中公新書

「天智と持統」 遠山美都男 講談社現代新書

「アマテラスの誕生」 溝口睦子 岩波新書

「日本の女帝の物語」 橋本治 集英社新書

「伊勢神宮の謎を解く」 武澤秀一 ちくま新書

「日本書紀の謎を解く」 森博達 中公新書

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2011年8月12日 (金)

古代の森.持統天皇はアマテラスか?《その2》

I94

天智天皇の出自の問題はともかくとして、その、人間性についても考えたいのだが、いまひとつ明確にならない。

乙巳の変における、腕力にものいわせる天智と、大化の改新の推進者、改革者としての天智がどうしても一致しないのだ。

それは、多分、改革は中臣鎌足が中心となってやったのではないかと思うしかなかった、改革は朝廷の力を強めるものであり、天智も反対する理由はなかったはずと。

しかし、近年、専門家の間で大化の改新はなかったとの説が有力になってるらしい、大化の改新は孝徳、斉明、天智とつづく政権で行われた一連の制度改革なのだか、それらの時代に、そのような改革は行われなかったというのだ。

天武、持統の時代の改革が、さも、壬申の乱以前のものであるかのごとく、日本書紀が粉飾されてるということのようだ。

もし、そうなら、誰がそのような粉飾をしたのか? 書紀の編纂を命じられた官僚や学者たちか? しかし、彼らには、そのような事をやらねばならぬ理由がない、当然、当時の最高権力者が関与したものと推測できる、それは天武天皇か持統天皇のどちらかに相違あるまい、どちらかと云えば怪しいのは天智の娘である持統天皇だろう。

いまいち、良くわからない天智天皇像は娘である持統天皇によって生まれたのかも、つまり、娘が父を生んだ?

天智天皇の直系を自認する持統としては、天智はあくまでも英明な主権者であってもらわなければならないのかも、逆に考えれば、もし、大化の改新というものがなかったとするなら、天智はただただ権力闘争の人だったのかな?

I98

天智は持統の姉の大田皇女を可愛がったという、持統《うののさららのひめみこ》については??である、疎まれていたというほどではないが持統は天智をガッカリさせたかもしれない。

大田皇女は天智の最初の子である、男でも女で無事に生まれてほしかったに違いない、しかし、二人目は男子の誕生を願っただろう。

娘を弟に嫁がせる意図はさておき、同時だったのか、相前後してなのかは不明だが、姉妹を一人の男に嫁がせる、大海人皇子にはすでに何人か妻はあったようだが、身分からして太田皇女が正妻的な立場だったとして、持統はオマケみたいなものか? 持統と大田皇女は母も同じ、年齢も一歳しか違わない。

持統と大田皇女との間に感情的な軋轢がないのが不自然だろう、すくなくとも持統は自尊心の強い性格だったと思われる。

天武天皇の崩御が6869月、翌10月には持統は大田皇女の生んだ大津皇子を謀反の罪で処刑してる。

大津皇子が、将来、争い事の火種になる可能性があったにしろ、チョット早すぎるんじゃないかな。

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